プロフィール
眼鏡の奥で微笑んでいる瞳は、暖かいけれど相手を射抜くような力を持っている。どこのどんな人に対しても、ブックマン博士は、80才の老人とは思えない、びっくりするほど柔らかい手をのばし、心をこめて、握手してくれる。
多くの人にとって、ブックマン博士は、それまで見たことのないタイプの人物だったに違いない。心の温かい、不思議な人であり、そばにいると否応なく不安を感じさせられる人でもあった。自分が本来すべきことをしていないという事実を、何となく、しかも強く感じさせられてしまう。何か特別の、非常に大きくて大事なことに命を懸けている人だということが、言葉の端々や、なにげない態度や動作から明らかに見て取れる。そしてそのことが、現在の自分のいい加減な生活をあぶり出し、不安にさせられるようだった。
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毎日新聞社刊(相馬雪香訳) [拡大]とはいっても、政治家や企業家、芸術家など、いわゆる偉い人たちとは違い、ブックマン博士の醸し出す雰囲気は優れて「非地上的」であり、その信念の正しさを疑うことは難しい。しばらく目を見合わせているだけで、自ずと自分の良心との対決を迫られる。
博士との出会いで、人生全体を揺さぶられるようなインパクトを受けた人は多い。それまでの自分の生き方、家庭や社会との関わり方等が突然新しい光に照らし出されて、まったく違ったものに見えてくる。与えられたものとして安心し、諦めてもきた職場や国や世界など、自分の人生の基本的条件の見直しを迫られる。それまで安住し、当然のものと考えてきた日常性への自信が揺らぎ、新しい感覚や意識や考えが心の奥でうごめき始める。
ブックマン博士がアメリカ人であることを全く感じなかったというアフリカ人やアジア人が沢山いた。また多くの日本人が、博士と一緒に過ごしている間「自分が日本人であることを全く意識しなかった。それは戦後初めての体験だった。」と言った。敗戦国日本の傷ついた自意識を優しく包み込む力を、ブックマン博士は持っていたに違いない。神の前では人は皆平等である、と言ってしまえば月並みだが、その事実を自ら体現し、戦後の日本人に謙虚さと人類愛を教えたのがこの人だった。鳩山首相は、来日したブックマン博士を繰り返し官邸や私邸に招き、助言を求め、戦後の日本への貢献に報いるために勲章を贈った。
鳩山邸での博士 [拡大]
叙勲祝賀会 [拡大]活動の広がりと大きさ
昭和36年(1961)の夏、南ドイツのフロイデンシュタットという小さな町で、84才の高齢で亡くなった時、MRAの活動は文字通り世界を席巻していた。それぞれ数百人の宿泊が可能で、劇場なども完備したスイスのコー、ならびにアメリカのマキノ島の施設に加えて、小田原のアジアセンターも既に建設が決まり、翌昭和37年(1962)10月にはアジア初の拠点として開設が予定されていた。
東京のMRAハウスをはじめとして、世界各国の主要都市の多くには、それぞれ立派な住宅が寄贈又は購入され、多彩な活動を展開していた。ロンドンではバークレー・スクエアという目抜きの広場の45番地、昔クライブ(Clive of India)が住んでいたという由緒深い豪邸と、それを囲む7軒余りの高級住宅で、各種の集会や世界的なネットワークの管理、出版事業などが行われていた。
コー・マウンテンハウス [拡大]
コー・マウンテンハウス(雪景色) [拡大]
コー・マウンテンハウス [拡大]
コー・マウンテンハウス [拡大]
コー・マウンテンハウス [拡大]
コー・マウンテンハウス [拡大]
コー・マウンテンハウス [拡大]
コー・マウンテンハウス [拡大]ワシントンではマサチューセッツ通り、日本大使公邸の筋向かいの超一等地に広大な敷地を擁するジャック・イリー夫妻の邸宅を拠点として、上下両院議員をはじめ政府高官、訪米する各国の指導者など、日夜世界の意志決定に参画している人々との間で、緊密な連絡が進められていた。博士が80歳を過ぎた頃からしばしば滞在したアリゾナ州、ツーソンのセブン・アーチェスは、巨大なサボテンの群落に囲まれ、終日日光が降り注ぐ夢のような家であった。そのほかメルボルンのアーマー、英国西部のターリー・ガース、ニューヨークの郊外に広大な土地を持つデルウッドと呼ばれる邸宅などがあった。そしてこれらの全てが、ブックマン博士との出会いに触発された多くの人々の寄付によるものだった。
ロンドン バークレイ・スクエア45番地 [拡大]
ロスアンゼルス・MRAセンター [拡大]何百という前途有為の人材が、多くの国々で、それぞれの職を離れ、事実上無給でMRAの活動に専従していたし、また数多くの有力な政治家や企業家、知識人や組合指導者など多彩な人々が、ブックマン博士の理想を実現するため、有形無形の支援を提供していた。
こうした施設の大きさと贅沢さ、世界を網羅する博士の個人的な交友関係などを見て、MRAの背後に巨大な力の存在を感じ、不審や疑問を持ち、批判する人も多かった。確かにこれらを通じて博士が持つていた影響力は大きかった。しかしそれはいわゆる政治的な力ではなかったし、各国で所有・運営している資産も、経済の論理では計る事のできない性質のものだった。
ピクトリアル 1956-1958 抜粋 45頁 [PDF形式]84年前、アレンタウンというペンシルバニア州の小さな町で生まれた一人の聖職者の人生の成果としては、例えどんな紆余曲折があったとしても、それは確かに驚異的な大きさをもっていた。そしてそれを可能にした原動力の殆ど全ては、ブックマン博士との出会いが周辺の人々の中にもたらした精神的エネルギーだった。博士との接触を通して、心に深く抱えていた憎しみや失望、悲しみや恐れが溶解し、新しい人生が始動された。個人の人生が変わるとき、周辺の体制や力関係を変える力が開放されることを博士は自分自身の体験から熟知していた。自分、ないしは自我という小さい殻を抜け出した魂は、広い世界に誘い出され、より大きな自己実現を求めて、世界再造というブックマン博士の夢の実現に動員されていった。そして、年齢や性別に関わりなく、多くの人々にとって、職場や国の制約を越えて、世界的規模を持つ活動に参加することは優れて刺激的な体験だった。
1948年当時 [拡大]
三笠宮両殿下と博士、
左端は西ドイツリチャード殿下 [拡大]
秩父宮妃殿下(左)と博士 [拡大]
千葉三郎議員(中央)と博士 [拡大]
博士を囲む左から松平国連大使、
戸叶武議員、星島二郎議員、
加藤シヅエ議員、韓国Yoon Sung Soon 外務委員長、
パライパイ比大統領副官 [拡大]
博士と相馬雪香氏、戸叶武議員 [拡大]
左から日本女子大学 井上秀理事長、
大橋広学長と博士 [拡大]歴史への挑戦
20世紀の世界は、レーニン、毛沢東、チャーチル、ガンジーなど、その歴史の形成に関与した多くの天才を生んだ。一つの信念と、揺るぎない確信だけを頼りに、独力で世界の歴史に立ち向かったという点で、ブックマン博士も彼らと同質の人間だったといえよう。
19世紀には個人がその力と尊厳を発見し確立したといわれている。国王や教会や貴族等特権階級の支配が後退し,代わって個人の権利と利益が優先されるようになった。そこから民主主義的な発想が生まれ、それを実現するための各種装置の模索が始まった。また20世紀は社会が社会を自覚した世紀とも言われる。国家社会主義は国という社会の資源のすべてを糾合して世界を揺るがす大戦争を起こした。共産主義は労働者階級の利益を旗印に各国で広範な運動を展開し、世界の風景を一変してしまった。
個人の集団を糾合することで、このように大きな力を発揮出来るというのは人類にとっての新発見であった。しかし力は大きくても方向に問題があれば、大きな危険をはらむことも実証された。ブックマン博士はその矛盾を直感的に感知し、より優れたアプローチを提唱してそれに対応しようとした。国家社会主義は、一つの民族(この場合はドイツ)を動員する事はできたが、他の民族は弾圧するか敵に回すほかなかった。階級という概念は民族よりも基盤が大きく、全世界に拡大することができたが、その階級に属する人々以外とは対立せざるを得なくなった。結果として20世紀はこれらの考え方が作り出した対立軸に振り回され、巨大な悲劇を経験することとなった。
ビルマ ウー・ヌー首相 1959 [拡大]
アジアのミュージカル「Turning of the Tide」
一行と博士 [拡大]
西アフリカリーダー トロン・ナ(右)
1958.6.4 [拡大]
西ドイツ海員組合リーダーと博士 1954.6.4 [拡大]
マキノを訪れたカナダ・アルバータからの
インディアン一行と博士 [拡大]特定の国や階級を優先する考え方は世界の滅亡に繋がるとして、ブックマン博士は、人類の存続繁栄のために、すべての国、民族、階級を包み込む思想を提唱したのである。反発と闘争でなく融合のイデオロギーを掲げて、博士は20世紀の歴史に果敢に挑戦した。そのことが博士の人生を昇華させ、他に例の少ないカリスマを形成させた。しかもブックマン博士の戦略は極めて有効で、世界各地でのつばぜり合いで勝ちを収める事が多かった。
戦後英国の港湾やルールの工業地帯など、ソ連側からの強い思想攻勢を受けていた地域で、闘争の渦中にいる数人の指導者の人生が変わることで危機が回避された事例が多かった。欧州共同体構想を始動した独仏の合意に果したブックマン博士の役割は、外交史にも記録されている。(Missing Dimension of Statecraft) 60年安保闘争の頂点で、加藤シヅエ議員が発表した融合のメッセージは日本の戦後史の流れを変えた。具体的なプロセスや量的な効果を証明することは困難だが、それぞれの切所で効果的な手を打って流れを変えた例が少なくない。
コーを訪れた岸信介前首相
(1961) [拡大]
コーを訪れた(前列右から)福田赳夫夫妻、
岸信介前首相夫妻 [拡大]
加藤勘十、シヅエ夫妻と博士 [拡大]
大谷議員と博士 [拡大]
マキノを訪れた河野一郎議員(1959) [拡大]1990年代以降の共産主義の凋落と崩壊は、当時を知る人にとっては信じられないような展開だった。ロシアや中国と言う大陸国家の資源と人材のすべてを動員した巨大な勢力が突然エネルギーを失うとは、ブックマン博士すら予想していなかったに違いない。しかしある意味ではそれは博士の予言通りの展開だったとも言えよう。「腐った卵ではよいオムレツはできない・・・」どんなに立派で未来志向の制度でも、運営する人の質が悪く、人生の目的が小さければ機能することができない。
いわゆる資本家や一部の権力者による理不尽な搾取を受けた人々の反発と憎しみをベースとした共産主義は、全世界で人々の心をとらえ続けた。しかし分裂抗争を原動力とするイデオロギーは、自分の中にも分裂の芽を育ててしまったとも言えよう。目的の為に手段を選ばない非道徳な方式が組織自体の壊滅に繋がったのかも知れない。制度を運営する人間の道義的弱点を解決できない体制は、官僚的非能率の罠から逃れることができない。冷徹で合理的に見えたシステムが、結局人間的弱点によって壊滅してゆくというのは、ブックマン博士の予測の通りであり、共産主義が機能するにはブックマン博士の提唱した考え方を受け入れることが不可欠だったとも言えよう。
カリスマ・その光と影
ルーテル派の牧師を志したブックマン博士の原点は純粋なキリスト教信仰にあったが、MRAに協力しようとする人たちに、キリスト教への転向を求めることはなかった。しかし、宗派の如何を問わず、各人の良心との対決は当然のように要求された。そしてそれが普遍的な真理である事が明らかであるだけに、それに協力しない決心をすることは困難だった。
ブックマン博士の考え方や態度に、東洋思想の面影を感じる人が多かった。一人の青年がなにかの理由で落ち込んで、性的な誘惑に負け、涙ながらにMRAからの離脱を申し出た。博士は優しく、落ちるときは徹底的に落ちて、泥だらけになって戻ってくるといい、そうすればもっと効果的な仕事ができる、と言った言葉には、泥が深いほど蓮は美しい花を咲かせるという仏教の物語を聞いているような味わいがあった。効果的な仕事をするのはその人が道徳的に輝いている時だけではない、罪の深さに嘆いていても、正直でさえあれば周辺の人を変えることができるとも言っていた。
アリゾナの家で瞑想に耽っていたある日、中国の人民公社にいる数億の人の事を話した。ブックマン博士は、彼らの苦しみが長く続く事を予想し、ひどく悲しいと言った。それは文化大革命が始まる5年も前のことだったが、博士にはいつも全ての人の姿が映っているようにみえた。神の目で世界を見ているような雰囲気があり、それだけに通常の理屈では判断ができない複雑さがあった。宗教、政治、経済、家庭など多様なテーマが、博士の中では渾然と、一つのもののようにとらえられているようだった。それはブックマン博士のたぐいまれなカリスマの源泉となっていたが、同時にその限界ともなったようである。
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左から毛允淑女史(韓国青年団協議会会長)、
朴賢淑夫人(元韓国厚生相)
加藤シヅエ議員と博士(マキノ1957年) [拡大]ブックマン博士に従う人々は彼を深く尊敬していたが、同時にそれぞれの性格や環境に応じて、博士の仕事の中に違う夢を描いていた。博士の持つ宗教性に牽かれる人もある一方で、その信念を世界政治の上で実現することにのめり込んでゆく人もあった。博士の生前は、全ての人が、創始者の願望に従って活動していると考え、安心して協力していた。ところが博士の存在が失われると、宗教活動、青年運動、政治活動など、それぞれの得意な分野を優先的に考えるようになり、運動全体の戦略について意見が分かれるようになった。もともと個人個人の信念と決意を、主たるエネルギー源としていたグループを、その中心が失われたあとも人工的に組織・統合することは困難だった。
しかもブックマン博士は自然体のままで、全世界に広がって行く活動を統轄するための組織や制度を一切作ろうとしなかった。既存の宗教教団や政治組織が、組織の官僚化と人事の停滞によって本来の生命を失ってゆく例は枚挙にいとまがない。それを知り抜いていたブックマン博士は、一切の組織を排除してすべてを個人とその良心に任せようとした。 それはいわゆる組織病の排除には効果的だったが、グループの中で意見が割れた時、それを収拾するメカニズムがなかった。そのため博士の死後は、各国各人の活動が拡散し、死の直前まで、明らかに存在した求心力が急速に失われていった。
個人の自覚だけを原動力として展開する活動としては当然の帰結だったのかも知れない。戦前から戦後にかけても幾多の分派活動があったと言われており、アルコホリック・アノニマス(AA)のように大きな実を結んだ例もあった。スイスのコーを本部として、コー・ラウンド・テーブル(CRT)が毎年開催され、世界の企業人を対象に「コー円卓会議・企業の行動指針」が広く提唱されている。また、博士の死後4年目にアメリカで始まったアップ・ウィズ・ピープル(Up With People)は、米国中心の青年運動として、2年前に解散するまで、世界的規模でかなりの成果を上げてきた。形に限定されず、個人個人がMRAから受け継いだ精神を生かして行くのが、博士を継承する正しい姿なのかもしれない。
そうはいってもブックマン博士の死後、各国のMRA活動が、改めて知らされたのは博士のカリスマの大きさだった。博士との出会いは多くの人の人生の方向と内容を根本的に変えてしまった。何十年も尽くしてきた党や組織を離脱し、博士の仕事に人生を賭ける人もいたし、なけなしの資産を寄付してトランク一つで生きてゆく決心をする人もあった。そしてブックマン博士は、それらを神の贈り物として受け入れる自信とカリスマをもっていた。
ブックマン博士が臨席する募金集会は、保身と理想のせめぎ合いの場として、いつも異様な緊張をはらんでいた。数時間の会合で1億円近くの資金が集まる事も決して稀ではなかった。それは神の仕業であって、自分は神の意志の謙虚な媒体にすぎない、と博士は言うだろう。しかしその媒体が存在しなければこうした現象が起こらないことも事実であった。MRAアジアセンターの完成は、ブックマン博士の死後一年半後の昭和37年10月のことだった。博士のカリスマは、死後も人々を動かして、信じられないほどの建物ができあがった。しかし在世当時、当然のことのようにして皆が頼りにしていた「打ち出の小槌」は姿を消して、当時の貨幣価値で2億円の借金が残った。時が経つに連れて建物の運営費の捻出も困難となり、非常な努力を続けて、30年後の平成2年(1990)にようやく完済することができた。財団にとって借金からの解放は非常に嬉しかったが、博士の死後は自分たちの器量と実力で生き、かつ活動してゆくほかないことを思い知らされた30年であった。
ブックマン博士の死後41年が過ぎた。色々な構想の下に各国の活動を統合し、活性化する努力が行われているが、博士の在世当時のような形と内容を再現することは出来ないし、望むべきでもないだろう。結局は残された我々の能力の範囲内で、また自分自身で納得できる形で、かつて全世界を動かそうとしたブックマン博士の精神を少しでも生かすべく、最善を尽くすほかないと考えている。
(文責・渋沢雅英)
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