LIOJ 35th Anniversary
「当時のLIOJを振り返る」
高橋 正美

 私がLIOJに就職したのは、開校して6年目の1974年7月。26歳の時でした。

 その頃のLIOJは、ローランド・ハーカー校長の下で、教務主任の木村利根子先生やマイク・ジョイ、グエン・ジョイ先生などLIOJの基盤づくりに尽力された方々が、独自の理念と実践をもとに時代が求める人材育成をめざして研究開発に取り組んでいました。その後私は、ウィリアム・ハーシュバーガー氏から、ロジャー・ペルケ氏、ランス・ノールス氏に至る優秀で個性豊かな歴代の校長に仕えながら、約7年間にわたって事務局の運営に携わることになりますが、以下、思い出すがままに当時の様子を振り返ってみたいと思います。

 当時のLIOJは、「学制向け合宿英語特訓課程」や「企業人向け合宿英語特訓課程」といった4週間合宿英語特訓コースの受講者が着実に増え始めた一方で、小田原市民を対象とした「コミュニティーコース」の生徒数も堅調に推移するなど、経営的には、ようやく黎明期を脱して発展軌道に乗ろうとする段階を迎えていました。

 しかし、運営面ではまだ多くの課題が残されていました。教育の場として、また生活の場として、LIOJはどうあらねばならないのか、校長と講師達による討議が連日連夜続けられていました。さらに、個々の講師の待遇改善や就業規則の整備、生活支援のあり方など契約内容の抜本的な見直しも急務でした。MRA本部毛原氏の助言をもとに作成した雇用契約書は、その後のひな型となりました。

 当時私は、運営上の問題を解決するためには、講師一人ひとりの生活環境を良くすることが肝要だと考え、私生活の支援に力を入れました。例えば、新任講師が初来日する時には必ず空港までクルマで迎えに行き、講師が気に入るアパートを一緒に時間をかけて探し、地域社会にスムーズに適応できるよう日常生活の細部にわたるオリエンテーションを行いました。電気、ガス、水道料金の支払い、ゴミの出し方、ご近所とのつきあい方、ステレオ等の音量、敷金、礼金、保証金の支払方法ほか、自治会や不動産屋とも良い関係を保つよう詳細なガイダンスを行いました。また、言葉や文化の違いによって生じた隣近所とのトラブルについては、些細なことでも迅速に対処しました。

 当時の関係者で忘れてならないのが、ハーカー校長夫人テルツ女史の存在です。テルツ夫人は、常に家庭的な雰囲気づくりを心掛けられた方で、LIOJの母のような存在でした。毎日の食事の献立を考えるかたわら、講師や事務局スタッフ、そして受講者一人ひとりの誕生日を正確に覚えていて、お祝いの言葉をかけられていたのが印象に残っています。また、講師達の歓送迎会やハロウィンパーティー、勤労感謝祭、クリスマスパーティー等が開かれる際にはいつも先頭に立って準備に当たられ、独特のユーモアでその場を和ませてくれました。当時のLIOJがいつも暖かな雰囲気に包まれていたのは、彼女の人柄によるところが大きかったと思います。

 当時の合宿コースの受講者は、週末でも帰宅せずLIOJに残留して英語学習に専念する人が多かったため、ハーカー校長は受講者達に気分転換をさせようと、毎週末に「OUTING」を実施しました。LIOJのバスを仕立てて箱根の温泉旅館に入浴に行ったり、ソフトボールを楽しんだり、天気が良い日は遠く伊豆半島や大島まで足を伸ばしました。これには講師も多数参加し、すべて英語オンリーで行われましたので受講者たちには大変好評でした。

 私が就職して1年後にハーカー校長が辞任されました。後継者には講師の一人ウィリアム・ハーシュバーガー氏が就任し、LIOJは心機一転、新たなステージに向ってスタートを切りました。ハーシュバーガー校長は、講師たちの本音をよく理解していましたので、職場環境の改善や就業規則の問題などそれまでの懸案を次々と解決していきました。

 ハーシュバーガー校長と私が真っ先に取り組んだ仕事は「企業人向け合宿英語特訓課程」の新しいパンフレットの製作でした。それは、新校長のもとでスタートする新しいカリキュラムがいかに優れたものであるかを、企業に向けて十分説得しうるものでなければなりませんでした。それまで信頼を寄せていた企業の賛同が得られるか否か、LIOJの命運はこの一枚にかかっていると言っても過言ではありませんでした。校長と私は、刷り上がったパンフレットをカバンに詰め、丸ノ内界隈の企業を一軒一軒訪問して、新生LIOJに対する理解を求めて回りました。企業から前向きな反応が得られた時は、二人で手を取り合って喜んだことを昨日のことのように覚えています。

 その頃の日本企業は、高い技術力を背景に中近東に向けたプラント建設の輸出を展開するなど、国際間の競争に勝つためのグローバル化を急ピッチで進めていました。それに伴い企業各社は、外地での監督や技術指導に当たるスタッフを緊急に派遣する必要に迫られるようになりました。短期間に大量の海外要員を養成しなければならなくなった企業にとってLIOJは正に「渡りに舟」の存在となりました。

 ロジャー・ペルケ氏が3代目校長に就任した頃には、日本企業の海外進出はさらに加速度を増し、外資系企業も日本への攻勢を強めるなど国際間の競争は一段と激しさを増しました。LIOJを受講する企業も多様化し、この頃から徐々に申込者数が定員枠を越えてキャンセル待ちが出るようになりました。常連の企業が定員枠を無視して社員の受講を強硬に迫ると言う事態が起こったため、講師の増員を図るなど定員枠を増やすための検討が加えられました。

 当時の得意先企業は、ブリヂストンタイヤ、電源開発、富士通、日本P&Gなどで、新入社員から部課長、重役クラスまで、あらゆる職種の人たちが全国から受講しました。ユニークな受講者としては、労働省の事務次官や日経連の教育部次長、朝日新聞外報部の特派員、日本テレビのアナウンサーなど多士済済な顔ぶれが思い出されますが、毎回、緊張した面持ちで入校してくる第一線の企業人たちが、文字通り寝食を忘れて英語の特訓に打ち込む姿は今でも目に浮かびます。

 私は立場上、そうした受講者たちのカウンセラー役をこなすこともありました。「会社の存亡は自分の渡米にかかっているが、英語力に自信がない。どうすればいいか」「自分の妻は英語がまったく話せない。外国では妻の役割が大きいと言われるが大丈夫だろうか」「子供が大学進学を控えているので海外へは単身で行かざるをえない」等など、世界に雄飛したニッポンの企業戦士の舞台裏は身につまされるものがありました。

 ランス・ノールス氏が4代目校長に就任した頃には、私はもっぱら対外的な折衝や営業活動に力を注ぐようになりました。企業内教育ではトップレベルの布陣を敷く新日本製鉄の人材開発室やNECの語学研修所の担当部長らが、LIOJの教育理念と実践を非常に高く評価してくれたということは、当時のLIOJの経営方針が正しく時代のニーズに合致したものであった証左だと思います。

 ワークショップの開催、「クロスカレンツ」の発行、タイ国の大学生受け入れ、アジア諸国の英語教育者との交流、米国TESOL学会やSITとの交流、JALT発足のきっかけとなったTEFL会議の開催等など、合宿英語特訓コース以外に私が在職中に携わらせて頂いたLIOJの事業の一つひとつが、世界で活躍する人材の育成に大きく貢献するものとなったことは疑う余地がないと思います。

 当時の回想を終えるに当たり、貴重な人生経験を与えて下さった渋澤代表理事、親身な助言を頂いた毛原理事、ともに貴重な体験を分かち合った歴代校長ならびに講師の皆さんに心から感謝とお礼を申し上げたいと思います。また、何かとお世話になったアジアセンターの木村・坪内両所長(当時)、運転手の栗山さんほか職員の皆さん、私のアシスタントとして協力してくれた高橋美津子さん、後にランス・ノールス夫人となったノールス・幹子(旧姓小栗)さん、私の後任を引き受けてくれた瀬戸伸仁さんほかすべての事務局スタッフに心から感謝とお礼を申し上げ、お祝いの言葉とさせて頂きます。

*2002年アジアセンターODAWARAの40周年記念行事に寄稿


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