LIOJ 35th Anniversary
「Innovative Challenge」
瀬戸伸仁

English Only

 LIOJのスタッフとなった1978年。海外に出かける人は、まだまだほんの一部の限られた人たち。まして英語も使うとなると、外交官や商社マンと思っていた。一般の人々にとって夢の世界であった「外国」にその春私自身が行こうとは思ってもみなかった。親戚や友人からたくさん餞別をもらい、真新しいパスポート、それも数次旅券ではない、1回だけ有効のものを手にして晴海埠頭から出発した。

 私が参加したのは、総理府の青年の船。オセアニアを歴訪するこの船には、訪問国の若者が30班それぞれに1〜2人いた。私と本格的?な英会話の出会いはこの航海が最初である。各班には「渉外」と呼ばれる通訳が副班長として1人いたが、必ずしも‘堪能’とはいえないまでも、私たち班員にとっては、頼りになる尊敬すべき存在であり、朴訥とした彼の英語に通じる英会話の基本をみた気がした。

 私の英会話は、同い年のニュージーランダー・ポールとのカタコト英語で始まった。あるとき渉外が、班のミーティングの通訳に私を指名した。通じなくなると助けてくれる渉外。その後、赤道祭のシナリオをポールと練るはめになった。そんな機会を敢えて私に与えてくれたこの渉外に今でも感謝している。

One Big and 13 Small Stepping Stones

 この航海は、いろいろな意味で私の考え方、その後の生き方を変えた。社会科の教師を目指していたのだが、実社会、それに少しでも外国との係わりのある仕事を先に体験してからでも遅くないと考え始めていたところに、スタッフの募集を新聞でみつけた。地元小田原である。「日本外語教育研究所」アジアセンター内と記してあった。「英語力要」とは書いてなかったが、後にそれは、数回目の募集で、先の「英語力」がネックとなり応募がなかったことでその部分を削除したと聞かされた。

 アジアセンター建設当時、小学生であった私には、建物の存在と高校時代、英語好きの同級生(彼女は後に英語教師となりサマーワークショップで再会した)が英会話を習っていたくらいの認識しかなかった。ましてLIOJという名前は知らなかったし、世間の多くの人も同じであったろうと思う。実際、受講生の家でさえ、電話でLIOJと言っても通じず、アジアセンターの英語学校と言い直すこともしばしばであった。

 自分の中では、3年間、いろいろなことを経験した後、教員になるつもりでいた。「学ぶ」「習う」「教える」「働く」「体験する」「トライする」「次へ進む」とさまざまな意味で、「機会を与える」ことは、生徒、教師のみならずスタッフにも共通のLIOJの理念であった。私にとっては3つの小さなステッピング・ストーンとなるはずであったLIOJで、一つの大きな、そして小さいが価値ある13もの石を踏むことになる。

Good Learner

 スタッフの一員として働き出した78年7月のLIOJは、活気がみなぎっていた。夏は学生向け合宿コースが企業人コースに併設され、サマーワークショップもある。かつ教師の交替時期でもあるため新しい教師、夏期のみの教師もおり全員フルタイムで20数人。ほとんどが日本は初めてで、平均年齢は私より少し上の27歳くらいであっただろうか。

 皆下手な英語を話す新米を快く迎え入れてくれたが、言葉の間違いを直されることはなかった。最初は不思議に感じたが、聞き返すことで意図を把握することはあっても直すことで会話の流れを止めることはしなかった。要は、learnerとして、相手の言葉、人の会話の中から能動的に拾い上げる、かつ自分の言葉を客観的にみるself-monitoring skillは、good learnerとなる必須条件として、受講生のみならず、私たちスタッフについても大切なskillとして求められていた。これを否応なしに体験させ、気づかせるのも「English Only」の理由の一つであり、LIOJ受講後の継続的な学習においても大きな力となるものである。しかしながら、教えてもらう、直してくれることを当然のように先生の責務として期待し、正しい英語を話さねばいけないと考える日本人にとって、この意識改革は大きな壁であったことも事実であろう。

 校長室のIBM電動タイプライターが文字を打つ音は、そのままオイルショックから立ち直りつつある日本経済の未来を打ち出すかのように、速いテンポで動いている。行換えでジーッと左に動くカートリッジは、立ち止まることを拒否するかのようにまた素早く文字を打ち出す。

 企業人向け<合宿>英語特訓課程

 E.F.ボーゲルの「Japan as No.1」が脚光を浴びたのもこの時期である。低コストで生産し、商社を通じて海外へ製品輸出する従来からの産業構造、高い生産性がもてはやされ、右肩上がりの成長を続けていた。

 この時期の企業人コースは、3クラス27人が通常定員であったが、必ずしも毎回満員ではなかったが78年の244人から81年には333人へと着実に伸び、LIOJの屋台骨を支える基幹事業であった。しかし、「国際化」とは、まだまだ英語教育界の広告宣伝と企業の数ある研修の一つとして位置付けられているようで、オイルマネーによるプラント建設や開発に携わるため中東地域に赴くものもいたが、実際受講生の半数以上は、再生を模索する重工業関係の企業人など、直近の海外渡航を控えている訳ではなかった。おおらかな雰囲気の中で英語が飛び交う。受講生も教師も小田原の小さな外国生活を楽しんでいるかのようであった。

 L.L.システム、VTR、OHPをはじめ、教育機器の導入は随分早かった。この時代ビデオはベータの全盛期。といってもほとんどが業務用で、LIOJでは、プレゼンテーションや修了式後のフェアウェルパーティで観るクラスのスキットの撮影にビデオカメラも活躍していた。まだ日本にはレンタルビデオもない頃で、休暇で帰国した教師がアメリカから持ち帰る数本のビデオ映画を何度も何度も観て楽しんだ。その後、LIOJの器材は、市場を席巻したVHSに移行し、研修の成果としてプレゼンテーションのビデオを各自持ち帰るようにもなった。

 当初は経理・プログラム準備、広告宣伝が主な仕事であった私の3年はあっという間に過ぎていった。退職された高橋事務局長の後任となることは、教師への道をあきらめることでもあった。しかし、一方で、学校とは異なるが「教育の現場」にも携われる、一流企業を通してビジネス社会に接することもできることは、自分へのチャレンジであると考えた。

 タイプライターの印字音は、WANGのワードプロセッサーのデイジーホイールが打つ連続音に替わっていた。

 オイルショックを乗り越え、力を蓄えた日本経済は、益々進む円高の中、さまざまな分野で急速な海外進出を始めることになる。製造業、特に米国の対日貿易赤字の元凶とされた自動車関連企業が相次いで北米での現地生産を打ち出し始めた時期でもある。これは関連業界はもとより、一企業内においても、管理はもとより設備や生産部門までありとあらゆる分野から多くの社員を海外に派遣することを意味するのである。当時から、人材開発室を設置し、更に自前の外国人講師を雇用し英語教育を行っていた一部企業を除き、海外要員の英語教育は、企業内教育の最優先課題となっていった。新たに生命保険や証券会社からの参加者が増え始めたのもこの時期である。

 受講者数も81年の313人から、82年360人、83年374人、84年は399人まで上り詰め、85年394人。

 この間、WangはMacintoshに替わり、けたたましいデイジーホイールの音は、国際化の激しい流れとは裏腹に、静かに紙を排出するだけのレーザープリンタに替わっていた。

 その後89年まで300人台を維持し、90年・91年は230人204人と減少していった。クラス数も3クラスから4クラス、時に5クラス40人にもなった。

 この間、受講企業も、技術者の海外派遣を中心とした建設/土木、石油、鉄鋼から、現地生産によりあらゆる部門の社員を派遣する自動車関連、国内の業務で英語を必要とする外資系製薬/化学、バブル期に急増した生保/証券など、それぞれの時代を代表する企業であった。

 1社からの受講者を最大5人に抑え、小規模・少人数クラスによるきめ細かなカリキュラムを基本とし教育の質を第一とするLIOJ。海外要員の育成と渡航スケジュールなどから受講受け入れを強烈にプッシュしてくる企業と教師陣との間で新米事務局長として苦労することも多かった。

 日本の財団法人ではあるものの、経営とプログラム運営は、教育者として、教育機関として常に最善を追求する教師陣主体の考えがまず優先された。この意味で、LIOJで働くことは、日本にいながらそのままアメリカ社会で働いていると同じであった。

 LIOJ Faculty

 激動する経済、社会変化に対応することはLIOJにとってたやすいことではなかった。一方で、安易に順応することが求められていたわけではなかった。そこには常にLIOJの理想があった。

 急増する受講者に対応することは、そうたやすいものではなかった。その第1は教師の数。毎日のように届く海外からのアプリケーションレターは、年に500通にも及び、書類選考の後、年1回、TESOL(注)の世界大会の時期にあわせて北米を中心にリクルーティングトリップを行い、直接面談した上でフルタイムの専任講師を雇用するLIOJにとって、教師の確保は最重要課題であった。

 第2は、バックグランド。依然として英語教育の専門家を主体としてはいるものの、一流企業、ビジネスマンの求めに対応するためには、経済、法律、技術などさまざまな分野の知識や経験をもった者を採用し、更に教師としてのトレーニングを行う必要性が高まった。

 そして、1〜2年を基本としてきた契約期間を延ばし、増加する教師数の中で入れ替わる割合・質を一定に保つことで優秀な教師を確保することとした。しかし、世の中のいたるところで「国際化」が叫ばれ始めたこの時期は、専門学校をはじめとする従来からの英語教育機関に加え、'株式会社'英語学校、企業に直接外国人講師を送り込む新手の事業が台頭しだした時でもある。「国際化研修」に自社の研修施設を使い、外国人講師との合宿プログラムを行う企業も出てきた。乱立の始まりであり、英語=外国人講師でツーリストビザのまま教壇に立つものも多く居たとか・・・そして需要の高まりは不足する外国人教師の給料の高騰となって跳ね返ってきた。)

 企業人のプログラム規模がこれ以上大きくならない中で、受講者数が横ばいで推移したとしても、契約期間を延長した多くの教師の給料、退職金などにより収支が逆鞘現象になることが予想されたため、現任の教師への不利益を与えないようにしながら抜本的な見直しを行った。

 新たな流れが起こった。文部省による公立中学・高校に外国青年をアシスタントとして招聘し、生きた英会話を授業に組み込もうとするAETプログラム、若干の例外は別として、外国人教授を受け入れてなかった多くの大学、外国の大学の日本校も乱立し、こぞって外国人英語講師を雇用し始めたのである。これは、授業時間数、給料等の面で破格のものであり、多くの優れた外国人教師が、この新しい職場に興味を示さないわけはなかった。LIOJからも多くのベテラン教師が、多くの大学に散っていった。

 Cross Currents

 LIOJは教師にとって理想的な場であった。高い水準のユニークな合宿プログラムはもとより、新たな教授法や教材、自ら研究開発したものを実際の授業で実践できる環境。そして成果を世界に発信できる英語教育機関誌「クロスカレンツ」があったことである。新しいアイデアや理論、教授法、実践の検証を満載し年2回発行され、20カ国以上で多くの英語教育者や教育機関で購読された。

 これらは、LIOJの教師によって編集・発行されていた。授業の合間や授業後、そしてウィークエンドまで費やして編集にあたる教師には常に頭が下がる思いだった。

 LIOJ退職後に高橋正美氏がかかわった「Tokyo Journal」に次いで、国内においてDTPで編集発行された雑誌の第2号だと信じている。

 JALT

 日本人英語教師の研鑚の場がLIOJのワークショップなら、外国人英語教師の研修の場はJALTの全国大会であった。ここでもLIOJは、傑出しており、多くの教師がプレゼンテーションを行った。名古屋、京都、岡山、大宮、東京と毎年変わる開催地に多くの教師を派遣する費用負担もうれしい悲鳴であった。参加当初ほとんどの参加者が外国人であったが、徐々に日本人教師の会員も増え、各地に支部が開設され、その規模は拡大の一途をたどった。

 一般・学生向け<合宿>英語特訓課程

 一般・学生コースは、78年の124人、79年の112人、80年の59人と減少傾向にあった。当時は、今のように誰でも参加できる海外ホームステイプログラムはほとんどなく、海外留学にいたっては、TOEFLを受験し、個人で希望校に手紙を出し留学手続きをするのが一般的であった。為替レートは200円/$まで進んではいたが、海外旅行はもとより短期であっても海外留学はまだまだ高嶺の花で、国内で英語に浸れる全寮制のLIOJ合宿プログラムはその競争力を維持していた。同時に円高のメリットを生かした旅行会社などが企画するコマーシャルベースのホームステイプログラムが安い料金で若者たちを引き付けていた。しかしながら、さまざまなトラブルも聞こえてきたことから、夏期の学生コースはその後も毎年30〜40人の間で推移したが、86年の18人を最後に、長い歴史をもつ一般・学生向けコースに終止符を打った。

 Summer Workshop for Japanese Teachers of English

 Speakingやhearingが求められることのない受験英語に終始した学校教育の中で、全国から毎年140人もの英語教師が参加するワークショップ。自らの会話力のアップ、新しい教授法の習得に熱心に取り組む彼らの姿に、近未来の日本の英語教育の変化を垣間見た気がした。このワークショップには、海外から著名な英語教育者、テキストの著者などがGuest Lecturerとして招かれた。また、タイ、韓国、中国などからの奨学参加者は、30人にも膨れ上がるLIOJ Facultyと共に、国際色豊かなBook Fairに参加する日本にあるほとんどの外国の出版社の代理店や編集者もLIOJのワークショップには、一目置いており、新しい教材やテキストをこれらのコネクションを通じてLIOJでの研究成果を出版した教師もいた。

 Community Program

 事業収入の約1割を占めていた通学制コースには、小学生から社会人・主婦にいたるまで、小田原やその近郊から多くの受講生が毎週せっせと山をあがってきた。当然ビジネスで英語を必要としているもの、将来の国際化時代を見据えたものもいたが、習い事、趣味の一つとして楽しんでいたものも多くいた。なぜならば、70〜80年代半ばまではLIOJと映画館以外で英語、そして外国人に接することはほとんど皆無の時代であった。

 その後の「国際化」の進展は、東京オリンピック後の第2期英語ブームにのり、拡大路線をたどった。社会情勢で変化する企業人コースは、収益率は高くても、定員の制約、教師の数の問題から必ずしも毎回いっぱいにならず、少ないからと教師を勝手に減らすこともできない中で、大所帯になった教師陣、経常経費を確保する上で新たな役割も果たした。

 84年まで、年間1400人前後であった受講者は、87年2400人、88年2700人、89年には3000人を超え、LIOJの名は地域に浸透していった。しかし、多くの教室を必要とするため、アジアセンターの研修事業との融合点を見出すのに苦労した。

 New Programs

 「存在意義がなくなればいつクローズしても構わない。」という、渋沢代表理事長の言葉は、皆にとって常にプレッシャーであったが、見方を変えれば現状維持だけであれば先細りとなるであろうことも、新たな分野に必要性を見出せば、また脈々として存在するLIOJとなりうることである。

 84年には、企業人コースを受講した上級者を対象にプレゼンテーションスキルとコミュニケーションマネージメントの向上を目指したBusiness English Skills Seminar、86年には、薬品会社専用の特別コース「大阪プロジェクト」、企業の人材開発担当と教育機関との意見交換の場を提供した企業内教育フォーラム(FIT)の開催、松下政経塾特別コースを開設、今日、国政や地方政治の舞台でその受講生の活躍を見聞きし一人目を細めている。

 時代の要請、時代を先取りしたプログラムは全て成功したわけではないが、そのとき、その状況の中で、苦労しながらチャレンジしたことは、この新しいプログラムに係わった全ての者の中で、価値ある経験として生きていると信じている。また、こうした「トライ・アンド・エラー」ができたことが、学校でない語学教育研究所、Instituteをその名にもつLIOJならではのことだと感謝している。

 国際理解クラス・Team Teaching

 80年代半ばに始まった文部省のAETプログラムは、外国人青年を全国の中学校・高校に派遣する事業。特筆すべきは、小田原市の対応であった。88年、文部省からAETを受け入れる自治体がほとんどの中で、地元のLIOJと手を結んだこと。英語の授業のアシスタントとしての外国人講師が一般的であったが、小田原市とLIOJは、中学校の「ゆとりの時間」を使い日本人英語教師とのTeam Teachingによる「国際理解クラス」を始めたことである。この年「Team Teaching」がワークショップの新しいテーマとなった。

 これは、コミュニティコース以外に、地域との関係を持たなかったLIOJにとっても、その存在を広く知らしめることにもなった。

 その後、小田原市や箱根町職員、信用金庫やホテル、商工会議所青年部の英語研修をはじめ、小田原青年会議所との世界の料理教室の開催など、地域との係わりも次第に増えていった。

 小田原に生まれ育ち、今も地域に係わる仕事をしている中で、LIOJが多くの人に知られ、今もさまざまな形で地域に貢献していることを大変喜んでいる。

 「国際派」で名を馳せた企業の社長をテレビや新聞でみた。LIOJの受講生である。我々が係わった多くの人々がそれぞれの職場や社会、世界で今も活躍している。

 LIOJの13年間は、人との出会いであり、私にとってかけがえのない経験と時間であった。ロジャー、ランス、デラルド、ジョン、ボブ、ウォリック、ドンの歴代校長をはじめ230人にも及ぶLIOJ教師との楽しく、ときに苦しくもあった時間は常に新しいチャレンジの連続であっという間に過ぎた。一番身近かにいたdiligentオフィススタッフ、アジアセンターの職員、高橋事務局長、坪内所長、毛原理事、渋沢代表理事に感謝する。

 そして、LIOJで出会った全ての人、全ての機会に感謝するとともに、40周年を迎えたアジアセンターと共に財団の今後に期待する。ありがとうございました。

(注) ESL English as a Second Language

(注) TESOL Teaching English to the Speakers of Other Languages

(注) JALT The Japan Association for Language Teaching

(注) AET Assistant English Teachers

*2002年アジアセンターODAWARAの40周年記念行事に寄稿


Top Copyright (c) Language Institute of Japan (LIOJ) / 日本外語教育研究所 Back