LIOJ 35th Anniversary
「LIOJと私」
大野美之

 大学の英文科に入学したものの、英語を話すどころか、LL (language lab)さえもなかったごく普通の公立高校を卒業した私にとって、英会話の授業は、全くなじみの無いものであった。しかし、附属高校や他の私立高校の出身者は、経験者であるらしく、英語の受け答えがしっかりでき、私はかなりショックを受けた。そんな時に、「小田原にある小さな外国」というコピーが載っているチラシを見かけた。チラシの中には、全員専任外国人教師で、English Onlyで教えるなどがうたわれ、大変魅力的に思われた。私は、早速週1回のコミュニティーコースに申込んだ。開校日を直前に控えたある日、LIOJ事務局から「アルバイト」で手伝いませんかと声をかけられた。外国人と働くことができるかもしれないという期待で喜んでお引き受けすることにした。DMを送ったり、「Cross Currents」のインボイスの整理だったり、仕事そのものは、単純であったが、大変に親しみやすい雰囲気のオフィスですっかり気に入ってしまった。授業も教師の質も大変高く、いつも楽しんで授業を受けることができた。授業後もコーヒーショップと言ってフリーカンバセーションの時間があり、1時間半の授業の後、さらに1時間くらいコーヒーショップを楽しんだ。クリスマスパーティーやハロウィーンなど、LIOJの先生の企画による色々なイベントも盛りだくさんで、LIOJは、私にとって欠かすことのできない存在となった。そんな訳で、すっかりLIOJの魅力にとりつかれ、十年以上にわたってコミュニティーの生徒としてLIOJに通った。最後のほうは、事務局で油を売ってばかりいたので、「Always late」と評価表に書かれていたが。

 大学も卒業し、何回かの転職も経験し、大来元外相の事務所で秘書をしていた私は、平成三年のある日、LIOJから事務局長をやってみないかという打診を頂いた。これまでもLIOJ大ファンであった私は、何回か事務局のスタッフとしてアプライし、働くチャンスはあったのだが、タイミングが合わず、なかなかその機会に恵まれなかった。私は、当時結婚して、東京に住んでいたので、この話は、かなり大変な決心のいるオファーといわざるおえなかったが、主人にも相談して、まったく経験のないadministrationの仕事を急遽引き受けることにし、平成3年10月からLIOJの事務局長として勤務することとなった。

 平成3年、私の母校でもあるお隣の小田原城内高校の英語科の先生から、「特別コースとして英語科を新設したが、公立学校という性格のため、全員を海外留学をさせることは、いろいろと難しく、LIOJで英語のプログラムを組んでくれないか。」という相談があった。2クラス約80名の生徒に対し、限られた数の教師で、朝から晩まで合宿制で教えることは、3日間とはいえ、初めてのことであり、色々な試行錯誤があったが、小田原城内の先生方と我々との何回かのやり取りの後、LIOJのtotal immersionを生かした生徒の満足度の高いプログラムとなった。初日の朝、プログラムをスタートさせたときは、学校の行事だから何となく来ましたという顔の生徒達が、校長のドン・メイビンの最初の「Help!」という英語がわからないときどうしたら良いかというイントロダクションの授業に入ると見る見る表情が変わり、たった3日間の授業ながら、「英語を楽しみながら、かつ高い動機付けで学ぶ」という優れたコースとなった。特に、夜のダンスレッスンは、大変好評で、ビックホールで80名の生徒や引率の先生までも英語で指示されるステップに汗をかいたものだった。最終日には、それぞれが修了書をもらい、なごり惜しげにアジアセンターを後にした。このプログラムは、都立深川高校、東京女学館、横浜隼人高校、神奈川県立有馬高校など徐々に広まっていき、現在も一部参加校の顔ぶれは変わりながらも好評を得ている。

 LIOJは、アジアセンターの地下1階に教室を有し、授業を行ってきたが、築25年以上を経たこともあり、建物の老朽化、消防法の関係から、平成4年の夏、アジアセンターが改修工事を行うこととなった。当初は、地下一階と一階、二階部分の一部のはずであったが、清水建設との打ち合わせで、既に改修が終了した四階、五階をのぞく、建物全体にわたることになった。教室は、校長のドンやスーパーバイザーの意向を取り入れ、学ぶ環境にふさわしいように細部まで詰められた。また、宿泊施設は、研修の利用とLIOJの合宿プログラムを意識して、快適に宿泊ができるよう、二箇所に洗面所や、学習用の机と椅子などが設けられた。ドンは、絵を書くのが上手で、清水建設との会議でもスケッチを書きながら、説明をし、財団や清水建設も十分に教育施設としての意を汲んでいただいた。計画は、かなり当初のものより大掛かりになり、会議も朝から夜中まで連日清水建設や工事の関係者と打ち合わせが続いた。

 30周年に合わせ、アジアセンターは小田原から地域や世界に発信するという新たなメッセージを込め、「アジアセンターODAWARA」と改称し、シンボルマークなどが決められた。最初の打ち合わせで、「この改修工事は、来年の春までに終了するのは無理なのではないですか」と工事関係者に驚かれたが、10億円をかけた改修工事は、平成5年3月には終了し、4月には、アジアセンターの30周年を無事迎えることができた。

 しかしながら、平成5年に再開したLIOJは、その前後から様々な問題を抱えることとなった。企業人向け合宿コースは、LIOJの目玉であり、total immersionという授業だけでなく生活そのものを英語で過ごすというプログラムであり、昭和43年開講以降、多くの企業に利用されてきた。開講以来、しっかりとしたカリキュラムを提供し、留学する以上の効果をあげた受講生もいたほど、参加者は勿論のこと、会社の人事関係の人にその実績から高く評価されていた。特に海外赴任前のトレーニングとしての役割は大きく、LIOJの後、世界のビジネス界へ赴任し、多くの方が海外で活躍された。建物改修後、カリキュラムの内容だけでなく、施設や食事の充実などハード面、ソフト面でさらに満足度を高める努力を続けてきたが、1ドル89円を記録するなど円高の影響や、多くの人々が気軽に海外旅行や、留学をするようになり、受講生が減少し、LIOJの企業人向け合宿コースは一つの役割を終えたのではないかという財団や我々の考えから、1994年3月期をもって一時打ち切りとすることと決った。それは、同時にLIOJのリストラを迫られることになった。教師や、スタッフを今までのように抱えることができないという現実に直面し、希望退職を募り、ダウンサイズをした上で、LIOJの特徴を生かすプログラムを残すこととなった。

 平成7年1月阪神大震災が起こり、以前から企業人合宿コースで多くの生徒のトレーニングを受けてきたP&Gの本社ビルも大きな被害を受け、新人教育が出来なくなったので、8週間にわたり、新人14名の英語のトレーニングをしてほしいという依頼があった。急な依頼ではあったが、アメリカから急遽3名の教師を招聘し、LIOJの教師と共に東京都多摩市の施設でトレーニングを行った。その後も以前の利用企業からの問い合わせもあり、年に数回、企業人向け合宿プログラムを行っている。

 LIOJの講師は、"Hire the best teacher"というポリシーで国籍、人種、宗教、男女など様々な差別なく雇用されている。ある日、日系のアメリカ人のスーパーバイザーが「日本人は、外国人というと青い目、金髪というイメージが強く、日系人は、雇用される際に、英語学校で教師として不利益をこうむることがある。」という指摘から、履歴書から写真が外され、hiring committeeに回覧されることとなり人種差別がないように配慮されることとなった。校長のポリシーにもよるが、ドンは、多くの国籍の教師を雇用した。アメリカ、カナダ、イギリス、ニュージーランド、オーストラリアばかりではなく、中国、インド、ポルトガル、フィリピン、シンガポールなどいろいろな国籍の教師と出会えた。もちろんみんな、英語を教える上で、ESLを取得していたり、専門性の高い経験がある人ばかりであった。時々、方言があり、聞き取りにくいこともあったが、米語だけでなく広い意味での英語を捕らえる上で、ユニークだったと思う。

 特に、英語教育者のワークショップは、アジアからの奨学金参加者が数多く、タイ、マレーシア、ラオス、カンボジア、香港、韓国と国際色豊かで、英語が、英語圏だけのものではなく、国際語としての役割を果たす言語であることを認識させてくれる機会であった。アジアから多くの英語教育者が参加し、日本人の英語教師に他国の英語教育について知る機会ばかりでなく、アジアについての理解を深める場となっていた。期間中の「インターナショナルナイト」は、各国を紹介するブースや、踊りの紹介がありいつも人気が高く、今も続いている。

 私は、大学生の時に、LIOJという素晴しい出会いがあり、そこで学び、働く機会を得られたことを心から感謝したい。LIOJのお陰で、多くの人と出会い、世界が広がった。私は、留学することもなく、英語に関しては、ほとんどLIOJで学んだ。最近は、なかなか英語を使うこともないが、LIOJで仕事をしている時は、留学以上の効果のある環境であった。LIOJは、私にとって、退職後も「ホーム」であり、楽しかった思い出がたくさんつまった存在である。今回、私は、仕事の合間をぬって財団の50周年をまとめるプロジェクトに参加させてもらっている。財団の設立の経緯、その後の運営の軌跡をたどるための資料整理と年表の作成が主な仕事である。十分に時間をさけない中での手伝いであるが、時代と共に財団も大きく変革してきたことを改めて痛感した。その中で、LIOJは、突然生れたものではなく、財団の数多くの、また信じられない規模の国際色豊かな活動を通じて生れた「シング・アウト65」やMRA移動学校などを経て多くの人のニーズに答えるべく生れたものである。私が事務局長を務めた6年半は私にとっては大変革の時代であったが、財団にとっては、戦後日本の高度成長と相俟って、それ以上に変化のあった50年間であったことを今回のプロジェクトでよく認識した。

 LIOJは、絶えず、時代を先取り、英語教育界で実績をあげてきた。パイオニアとして、多くの教師とスタッフがプログラムをより完成度の高いものにするために真摯な取り組みと努力を続け、今日のLIOJを築いてきた。これからも多くの可能性にチャレンジし、ユニークな語学学校として良質なプログラムを提供しつづけるよう期待したい。

*2002年アジアセンターODAWARAの40周年記念行事に寄稿


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