LIOJ 35th Anniversary
「日本語のない生活」
山崎三朗

Kenが突然早口な英語でしゃべりだす。皆ぜんぜんわからない。「わからなければゆっくりしゃべってくれ、と頼めばいいじゃないか」。ここから日本語無しの2週間が始まった。

この最初のレッスンはいまでも強烈な印象が残っている。まずはゆっくりしゃべっともらい、次にわからない言葉を問いただし、そしてこちらから内容を確認する。「なんだ、こうすれば何を言っているのかわかるようになるじゃないか」と目から鱗がおちるかのようでした。この最初のレッスンで最初に問いただした単語―hectec―は今でもよく覚えている(ほとんどその後使うことはないのだけれども)。

フィリピン人のAbetは経験豊かで、エピソードなど織り交ぜながら話をするので、面白く授業に参加できた。女性の先生も多く、フィリピン、英国、それにもう一人いらっしゃったと思う。

こうして強く印象に残っているのも、自分自身が真剣に取り組んでいたこともあろうが、日本語をしゃべらない(しゃべっちゃいけない)環境というのも大いに影響していたのだろう。中休みになる土日も、7人のうち3人は小田原に残りオフを取ったのだが、一夜城へのハイキングや、買い物、街のレストランなどすべて英語でやり通したのも今ではいい思い出になっている(喫茶店のウェイトレスには笑われたなあ)。ひとつ残念だったことは、これだけ日本語を使わなかったにもかかわらず、英語の夢を見ることはできなかったことです。Kenは、かならず見れるようになる、と言ってはげましてくれていたのですが。

LIOJで会話の技術やフレーズ、聞き取り能力などもちろん向上しましたが、もう一つ学んだことは、英語はできるできないではなく、人それぞれどの程度できるか、だけが違うということです。つまり学校で英語を勉強した人にとっては、誰しもその人なりのレベルでのコミュニケーションの取り方があるわけで、決してできないと思う必要はない。逆にいえば、合格ラインがあるわけじゃないので、勉強と思わず地道にレベルを上げていくしかないことも確かです。でも当時(38歳)の年まで英語を勉強の1科目のように思っていたのは、ちょっと情けないことことですが。

 LIOJの後、海外出張のお供程度はするようになり、そして7年後になる2002年、ついに海外赴任が決まり現在マレーシアに勤務しています。今でも不十分なのでこちらで学校に通っていますが、私の英語のコミュニケーションの原点は小田原にあることは間違いありません。

今後、できるだけコースの種類(2週間、4週間、もっと長い期間も含め)や開催の回数が増えてより多くの人が参加できるようになることを期待しています。

 もう一つ思い出しました。食堂の食事けっこうおいしかったなあ。

1995年6月 2週間コース受講

住友金属鉱山株式会社勤務


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