LIOJ 35th Anniversary
小野木 英敏

 私は、多くの同年代の人と共に、高校時代からMRAの活動をしていました。そして勉強をしながらMRAの活動が出来るようにという目的で移動高校が創られることになり、私、ハーカー先生、アメリカ大使館のアポロ月面着陸の同時通訳をされた西山千氏にご協力いただき、Sonyの井深会長にお会いし、移動高校に必要なビデオレコーダーを寄付していただきました。その結果私達は、NHKの通信教育を何処にいてもレコード出来るようになりました。そして一年間、南は沖縄から北は北海道までMRAの活動をしながら旅行して、各地で色々な人に会って、とても有意義な体験をする事が出来ました。私は、移動高校に編入した時は3年生でしたので、大学への進学を希望していました。その時、アメリカのミシガン州の五大湖にあるマキノ大学(MRAの大学)に留学のチャンスがあり、移動学校から6名が留学することになりました。そこで問題になったのは、いかにして私達6名が、それも短期間で英語を話せるようになれるか、でした。そこでハーカー先生達が考え付いたのが、一日中日本語を話さないで、英語だけを話す学校を設立することでした。これが現在のLIOJのはじまりです。この時私達にあったのは、小田原のアジアセンターの施設と、英語の先生だけでした。そこで、移動高校の時と同様にSonyの井深会長のところに行って、英会話学習用のティーチングマシンを寄付していただきました。そしてLIOJが出来、一般からも生徒を募集して一期生が入学してきました。私は、LIOJに行く十分な資金が無かったので、夜LIOJの生徒が使う英語の教材のテープを録音する仕事で学費を作りました。井深会長の息子の誠さんも、LIOJの一期生として入学されました。後日知ったのですが当時の盛田社長は、私の親戚の神谷家を通じた親戚でしたが、井深家とも神谷家を通じた親戚だったのです。この事は、LIOJを卒業して20年後に井深誠さんから聞きました。この時世間とは、何って狭いもんかということを実感しました。

 LIOJでの思い出は、なにしろ英語を、赤ちゃんが母親から肌を通じて習うのと同じように聞きなれることだと思っていましたので、毎日の英語での生活はアメリカ留学にとって非常に役に立ちました。特筆すべきは、英語に対しての恐怖感が無くなったことです。私の経験からいうと、英語を習うため一番必要な条件は、90%は勇気で、10%が知識だと確信しました。相手と意思疎通するには、話さなければなりません。始めの頃は、自分の話していることが通じているのかどうかばかりを気にしていました。しかし、ここで勇気を出して、自分から話そうとしなければ上達しないでしょう。これを克服するために一番良かったのは、毎日10センテンスを丸暗記していくというプログラムでした。なぜならアメリカで生活するのには、1000語以下の単語しか使用しないことが多いということだからです。それに毎日暗記していくセンテンスに、私達の習った単語を当てはめるだけで、アメリカ人と十分意思疎通が出来たということです。毎日暗記のセンテンスを10個ずつ覚えて2ヶ月で600センテンスも覚えれば、普通の会話には殆ど不自由しません。また、LIOJ内で英語だけで生活するにあたっては、お互い下手な英語でもなんとか通じるもんだということです。

 この様にして、私は3ヶ月間、今まで誰も経験したことの無い体験をさせてもらいました。私は、LIOJ卒業後マキノ大学に留学しましたが、一年後に大学が経営困難になり、カンサス州のオタワ大学に転校してそこを卒業し、1973年にカンサス州立大学の経済学部大学院と経営学部大学院を卒業しました。

 私の人生は波乱万丈ですが、LIOJとアジアセンターで学んだことは、如何にして問題を解決していくかの方法論だと思います。それだけではなく、世界的な視野で物を見ていくことの大切さです。ボーダーレスの時代になりました。LIOJの存在意義は、日本の将来にとって大変重要だと思います。これからも多くの国際人を、このLIOJを通じて出されることによって、世界と共に歩む日本の原動力になっていただきたいと思います。


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