LIOJ 35th Anniversary
Kiyoshi Kehara
Board of Directors Member, MRA Foundation
Assistant Director, Asia Center Odawara
財団法人エムアールエイハウス理事 毛原清

LIOJが35周年を迎えた。私は設立当初から財団のスタッフとして、またアジアセンターの経営という立場でLIOJと関わってきた。歴代の校長をはじめ多数の教師そしてスタッフの方々との交流を思い起こすと大変に感慨深いものがある。初めてアジアセンターを訪れたのは1964年の春であった。それから1年後、ほんの数年のつもりで小田原にやって来たのだったが、不思議なことに40年の長期に亘ってこの団体と関わることになった。

 LIOJが始まって間もない1970年ころ、税務署の職員が調査にやってきた。しばらくして、外国人教師などへの源泉税納付書が送られてきた。ビックリしたハーカー校長と私は早速国税局に出向いた。ハーカー校長がMRA運動の趣旨や活動そして長年ボランテアとして、無報酬で活動してきたことなどを説明した。係官はなかなかMRAの活動を理解はしなかったが、課税の方は大幅にこちらの主張を認めてくれた。

 当時の教師はアメリカのマキノ大学などMRAの関係者で、アジアセンターでの宿舎と食事が提供されるほか、毎週数千円程度をお小遣として支給していた。

これをキッカケとして、給与など教師との契約書の整備が行われた。また施設面でもニューハウスとよばれる宿舎の建設をはじめ、BIの厨房を教室にしたり、2階の通訳ブースや映写室をオフィースにする改修や客室、教室の冷房化など様々な工事が行われた。プログラムも企業人向けコース、春休み夏休みの学生コース、ワークショップなどに加えてコミュニティコースと多彩になり、教師やスタッフも整っていった。クロスカレンツの発行やテープ教材の制作など研究的な分野での活動も活発であったが、販売の方はなかなか伸びず在庫の山を築いてしまった。

 この時期東京のMRAハウスでも2階を改造して教室にし、小中学生コースを中心に婦人コースや一般人コースなどが開設された。最初は小田原から先生が通ったが、その後数人の教師を雇い、後にはフランス語、中国語コースなども開設された。夕方になると付近の慶応、聖心そして東洋英和などの子供たちの声が賑やかだった。こちらは数年で閉鎖され、その後教室だったスペースは日本国際交流センター(JCIE)が入って現在まで活発な活動が行われている。

 LIOJの設立から数年が経過し研修会事業が軌道に乗った頃、取引銀行に依頼して経営診断を行った。専門のコンサルタントが泊り込んで、職員や教師へのインタビュー、経営の数値や施設の利用実態など多角的な調査をしてくれた。KJ法などを駆使した診断報告書のキーワードは「LIOJは聖域か?」というものであった。ハーカー校長は財団の設立者の1人であり、アジアセンターの建設では、スイス人の設計者ルドルフ氏の通訳も兼ねて、清水建設との交渉に当たるなど建設の責任者であった。建物の構造、ボイラーや空調、35ミリの映写機や皿洗機に至るまであらゆる設備に精通し、時には自ら操作運転することも厭わなかったし、この建物に強い愛着を持っていた。ハーカー先生の教育への情熱は、語学教育に留まらず、人生を「いかに生きるか(Live)」「いかに学ぶか(Learn)」「いかに導くか(Lead)」であり、若々しくエネルギッシュであった。そのハーカー校長がテルツ夫人と共に常駐し、授業はもちろん若い教師や受講者の生活面にまでも全精力を注いでいるのを見ていると、LIOJの望むことは何でも適えてやりたいという気持ちになるのは当然であった。食事のメニュー、教室や部屋割りそしてバスの運行、年間の予定などセンターの利用は優先的に行われた。こうした意識はセンター経営の基本的なコンセプトとして、当時の木村所長そして後を継いだ坪内所長も大切にした。かくして1970年頃から20年以上に亘って、LIOJはセンターの主役であり続けた。

 教師達とは、冬はスキー、夏は初島そして大島ツアーにも同行した。慰労会では日本料理屋にもよく行った。またトヨタやブリジストンなどクライアント企業の工場見学など主に課外活動に参加した。LIOJの卒業生たちが私たちを歓迎し、工場の案内や製品の説明など生き生きと活躍している様子を目の当たりにして、強い印象を受けたものだった。

 1992年10月アジアセンターは開設30周年を迎えた。10年前の20周年では、食堂や厨房などの大工事を行い、その後ゲストハウスや東館の建設など施設の整備は着々と進んでいた。センター本館についても行政側から防災上の改修工事が要請され、それに応えてエレベーターの更新、箱根ウイングや4,5階の改修などほぼ1年おきに行ってきた。こうした一連の事業は総額10億円ほどで、これまでの蓄積と3億円の借入金で賄ってきた。アジアセンターの経営状況からすれば、残された部分の改修工事は、財源の目処がたたなかった。この借入金の返済が最優先であり、これ以上の投資は相当な長期計画で考えるというのが基本的な路線であった。ところが幸運が訪れた。アジアセンター建設当時寄附された美術品がかなりの金額で売れることになり、急遽30周年記念事業として大改修に取り組むことが決定した。

 建物設備の近代化とスプリンクラーの設置や不燃化など防災面の強化に加えて、居住性やサービスの充実などハード・ソフトの両面で時代のニーズに応えることとB1から3階までのほぼ全面的なリニューアルは、3ケ月の準備と5ケ月という工事期間で行われ、その間新しいスタッフの採用や教育訓練、リニューアル後の販売や体制の整備など慌しかった。

 当時株価や地価は1989年のピークからかなり下落し、相対的に見て良い時機だと判断したのだが、その後10年以上に亘って今日まで日本経済の落ち込みがこんなに長く続くとは夢にも思わなかった。

 工事は20年前に建設したニューハウスを取り壊し駐車場にすることから始まった。2階のフロアはBCPプログラム用に改修した。宿泊室,教室、教師やスタッフのラウンジ、オフィースにもたっぷりとスペースを確保した。改修工事は予定通り翌年3月末に完成した。教育研修に加えて地域に根ざした文化コミュニケーション施設「アジアセンターODAWARA」と改称して新しいスタートを始めた。

 皮肉にもそれから1年後には、急速に進んだ円高と企業の海外対応の変化などによりBCPプログラムを縮小することになり、教師やスタッフも大幅に削減した。1980年代には、延べ10,000人以上に上った宿泊受講者も高校生やワークショップなど短期の宿泊コースとコミュニティプログラムが中心となり、最近では2000人以下の状態になっている。その一方でこの駐車場が活況を呈しており、車の整理には頭を痛めることが多くなった。

 「アジアセンターODAWARA」は昨年40周年を迎えた。この10年はレストランをはじめとした料飲や地元企業・団体の会議、集会そして北条五大祭り、花火大会、地球市民フェスタなどなど地域との結びつきが格段に強くなった。反面研修事業はバブルの崩壊・リストラなどの影響を受けて目標に達しない年度が多く、なかなか満足のいく歳月ではなかった。しかしセンターにとっては資産の目減りや不良債権などの影響は殆どなく、この年度末には借入金もほぼ完済できる状況であり、そうした意味では比較的恵まれた幸運な10年であったと言えるかもしれない。

 昨年10月の記念式典に合わせて小冊子「アジアセンターODAWARA40周年記念―戦後の日本とMRAの軌跡」とCD−ROMを制作した。アジアセンター40年の歩みとその背景にあった戦後のMRA活動について、多数の歴史的な資料・写真・年表に加えて最近の活動状況についても収録した。

 財団はアジアセンターの研修事業やLIOJが軌道に乗り、東京麻布の資産活用の進展に合わせて、1970年代から東南アジア諸国を対象とした知的交流事業(イーストウエストセミナー)や公益信託アジアコミュニティトラスト(ACT)の設立、OCA、国際MRA日本協会やNGO団体などに対する助成活動等を行ってきた。その総額は過去15年間では3億6千万円ほどになる。近年の超低金利により規模の縮小を余儀なくされていることは残念である。

 LIOJはハーカー先生から現在のケイニー氏まで歴代の校長のイニシアチブを原動力として運営されてきた。教師やスタッフそして受講者への最大の関心事は、LIOJでの体験が人生の価値ある1ページとして意味があるものであってほしいということであり、その伝統は現在も受け継がれている。ワークショップの参加者はそうしたリピーターが多いし、わずか2、3日の高校生にもLIOJの体験は学ぶことの楽しさや喜びなど、知的好奇心を呼び覚ます不思議なエネルギーがあるようだ。ハーカー校長は開講式で「私の願いはLIOJのような学校が必要でなくなる日が一日も早く来ることです。」からはじまった。あれから35年、ソ連の崩壊や中国の変貌、経済のグローバル化やIT革命など、当時予期しなかったような世界が実現している。一方日本の語学教育の実情は、まだまだハーカー先生の夢の実現には至っていないように思われる。


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